夜露乳首金玉崩壊日記

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私たちは「世界」に「平穏」を盗まれている、pungent style、

瀬那十五年七月三十日

思い出したくはないかもしれないが、人間は結局のところ動物であり、他のいかなる動物もそうであるように、自分たちの価値を認めさせ、自分自身に価値を与えることのできる空間を占有したいと望むと同時に、他者から自分たちの価値を貶められるのを避けるために、他の動物たちをその空間から追い出そうとする。

Julio Cabrera, Mal-estar e moralidade(Gemini・訳)

午後十二時四分。紀州梅ゼリー飲料、かきもち、紅茶。かきもちは鷹の爪の粉末などが練り込んであるので辛い。午前十時半には目を覚ましたんだけどけっきょくこのくらいの時間になっちまう。誰のせいでもない。本と映画のこと以外はあまり考えたくない。つい考えてしまうことというのはたいていは「ろくでもないこと」で、僕を慙愧とジェラシーのswampに引きずり込むだけだ。ウディ・アレン『スターダスト・メモリー』の気球が飛ぶシーンで流れていた音楽を、グレン・ミラーの「ムーンライト・セレナーデ」だと特定できた日から、この音楽が脳内で再生されてばかりいる。だいたいかつて総合的な音楽ブログを運営していた男がこのスタンダード・ナンバーの曲名を知らなかったとは、まったくもってあるまじき話である。アルマジロ。立石花子とモスクワでアルマジロの肉を食ったのは昭和十八年の夏だった。ヨシフ・スターリンも同席していたと記憶している。花子の陰毛はいつだって無駄にとんがっていた。彼女のプッシーを舐めようとしてなんど失明したか数え切れない。花子も最後には自死を選んだ。アルコールと睡眠薬のODで。庸子といい美津子といい叔母といい僕がまぐわった女はだいたいみんな最後には自死してしまう。ここ数日は暑さが控えめなのでエアコンを付けていない。助かる。今年熱波に襲われているあの気の毒なヨーロッパ人たちと同じで、僕も本当はあんなもの使いたくないのだ。もう書くことがない。虎馬に食われそうだ。「生きる」とは痛ましいものをいやおうなしに見せられ続けることだ。そういえば昨夜『自転車泥棒』というイタリアの映画を見たんだった。Ladri di Biciclette。1948年。やはり映画90分くらいが一番いい。ハゲどもがモノローグ的に延々喋りまくるあのタルコフスキーのあの映画に比べればずっとすっきり見られた。僕もたまには「すっきり」したいよ。ただ「救い」のない映画だった。映画史的分類のことなんてよく知らないし関心もないんだけど、こういうのを「ネオレアリズモ」と呼ぶらしい。しかしあんな小汚い失業者の群れのなかには入りたくないね。仕事上必要な自転車を盗まれたアントニオ・リッチ(カタカナにすると金持ちそうだがむしろ逆)が、盗まれた自転車を幼い息子ブルーノと超不器用に探し回るところばかり見せられる。「人生」の大部分は何かを探すことに費やされている。強いて「無意味」なことを言うならあの自転車はいわば「ささやかな(最低限の)幸福」の「象徴」なんだな。 「自転車泥棒」と会話していたとしてリッチが問い詰めることになる貧窮ジジイは、不幸で煮しめたようななりをしていて、ずっとオドオドしている。「生きるのに精一杯である」とはつまりオドオドし続けることなのだ(だからいじめたくなる)。リッチは最後には「魔」が差したのか自転車を盗む側になってしまう(不成功に終わるんだが)。土砂降りのなか傘を盗まれた人間が傘を盗む側になるようなもの(「こんなにいっぱいあるんだから一本くらい構わんだろう、放置傘なのかもしれないし」)。安易に「道徳的感動」を求める映画であれば、自転車を盗んだ青年が良心の呵責に苛まれているシーンくらいは入るのかもしれないが、そんなのは薬にしたくてもない。各種「生存資源」が欠乏しているこの「残酷世界」では常に「倫理的阻害」の力学が深く広く作用していて、しばしば人は、自分(たち)の「快適さ」を最低限維持するためにさえ、他者の「快適さ」を損なうような行動を取らざるをえない(そこには「他者の惨状を見て見ぬ振り」も含まれている)。フリオ・カブレラのいう「世界における生きづらさ(mal-estar no mundo)」を誰もがなんとか緩和・軽減しようとそれぞれ違ったかたちで足掻いている。その足掻きが「友への裏切り」となったり「ギャンブル依存症」となったり「家庭内暴力」となったり「借金の踏み倒し」となったり「〝ネトウヨ〟的言動」となったり「自転車泥棒」となったりする。「経済的自立」なんて言葉を知らない僕は、映画であれ小説であれ、「子供目線」で受け取ってしまう。『自転車泥棒』では、あんな無能な貧乏男を父親に持つのはぜったいに嫌だなと思った。ああいう映画を見て「親子の絆」とかなんとか感動できるような愚物とはきほんユークリッド平行線だろう。ブルーノは早めにあの家を出るべきだ。どっかの富豪の養子になったほうがいいかもしれない。というかあの親父とその妻は早晩首を吊ってしまう気がする。あの時代のイタリアに日本でいう「生活保護」のような福祉制度はなかったのかしら。僕のこうした「素朴な苛立ち」はじっさいあの映画を見た大半の人が経験したものだと思う。つまり僕はきわめて「平均的」(凡庸)な感想を述べているに過ぎない。もう飯にしたい。ざるそばとなっとうでいいか。あかのれんに半ズボンを買いに行こうかな。セカストはどれも遠すぎる。毛脛を恥ずかしく思うようでは男なんてやってられない。だいたいこっちは周期的にヒゲを剃るだけでも嫌なんだ。「生きる」というのは自己再生産的シャドーワークの束に他ならない。人はいつも「自分のこと」に関心を向けるよう強いられている。誰もが生まれた瞬間から惨めな自己愛中毒者だ。たいていの「絶望」は深刻な表情をしていない。陽気を装うのに必死だから。生きていてもいいことなんて一つもないとはっきり言えるまともな大人になりたい。まともな大人なんてのはみんな底抜けのペシミストであるに違いない。しばしば戦闘的でさえあるかもしれない。振り向けば青バナナをかじっている司忍。三島の生首に見惚れている。言うまでもなく日本はもう終わりだ。富豪も政府の連中も、もう日本を脱出する準備をはじめている。地球の男たちにそろそろ飽きはじめてきた。どいつもこいつも腑抜けそのもので「魔王的な色気」をこれっぽちも感じさせない。「この人のペニスに全身を貫かれて死にたい」と発情させてくれない。あの男たちは何もかもを見ていながら何も見ていない。この残酷宇宙をひっくり返すことなんか考えていない。苦悶の山嶺で宇宙大の「否(ノン)」を叫んだことがない。生きながら死んでいるようなものだ、とつい言いたくなるところだが、そもそも生きてさえいないので、この言い方はまったく正しくない。ああもう嫌じゃ嫌じゃ。今日だけ僕のワガママを許してほしい。いかれぽんちのぐっげんはいむ。UFO!