夜露乳首金玉崩壊日記

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「すべての道はオナニーに通じる」と桝掻太郎は言った、

瀬那十五年七月三十一日

昔の童貞は、活字でオナニーをしていた。活字でのオナニーには妄想を駆使する必要がある。まず妄想で勃起し、手の刺激で射精、というのが昔の童貞であった。しかし、AVの登場を迎え、ズリネタは活字から映像へと変わる。映像には妄想が入りこむ余地がない。よって、長いこと映像でのオナニーをつづけていると、手の刺激のみによって勃起から射精までがおこなわれる習慣がつくことになる。

物理的な刺激によってしか反応しなくなった「即物的なチンポ」は、初体験で実物の女性の裸を見ても、さわっても、勃起することはない。昔の童貞とちがって、頭が、妄想を勝手に走らせたりすることがないように、できてしまっているからだ。

澁谷知美『日本の童貞』河出書房新社

午前十一時五十五分。唐辛子系かきもち、緑茶。離床後カラエズキあり。昨夜の過飲のせいか。以前も書いたけどカラエズキというのは多分に心因的なものである。出たら嫌だな、出るかもしれない、といった予感そのものが誘因を形成する点で、「予言の自己成就」に似ている。実は「人間関係の破綻」においてもこれと似たような力学が働いている。恋人であれ友人であれ、「別れ」の前段階において、われわれはその人を嫌うための理由づくりに自覚もないまま勤しんでいる。合言葉はイソジン吉村と愉快な仲間たち。過呼吸。昨深夜はEdmund Elias Merhigeが脚本を書き、監督もした『Begotten』という映画を見た。初公開が89年なのにフィルムグレインの強いモノクロで、いかにも初期サイレント映画というふう。「時代錯誤のヤバい画面を作り出してやろう」といった監督の匠気が見え透いてしまって、ぼくはぜんぜん面白くなかったんだけど、こういう〝カルト映画〟臭さを面白がれる人も世界にはそれなりにいるんだろう。

とちゅうで飽きたので変なものを映し続けるPC画面を撮る、

たしかに危険なにおいのする怪作だけど、血まみれの拷問動画だとかスナッフフィルム(とされているもの)だとかが既に出回って消費されている世の中でこんな鬼面人を驚かすような作風になんの意味があるのかな? だいたいこれなら穴瑠玉狂・監督『猟奇エロチカ 肉だるま』のほうが「いわくつき」の力も与ってよほど不気味感があるよ。こういう感想は〝お門違い〟なのかもしれないけど、たしかに脳裏をよぎったんだから書くほかない。さらに〝お門違い〟なことを重ねるなら、ソ連軍の記録班が撮影した解放直後のナチス強制収容所の映像の前ではこんなものは「ごっこ遊び」でしかない。せめて「こんなフィルムがわが社の倉庫から発見されました」的な嘘の触れ込みとともに発表できなかったものか。「恐怖の質」においては、「作品」はいつだって「現実」の前にひれ伏す。むろん「記録映像すなわち現実」ではない。僕の「哲学」に引き付けていうなら、「現実」というのは「そのようなもの」としては把握不可能なものであり、だから「これが現実だ」と指示できる類のものではない。少なくとも僕は、既に「経験」されている個々の「表象」をそのまま「現実」と捉えるほどナイーブにはなれない(禅認識は「現実認識」とはまったく別種のものである)。自分でもなにを言ってるか分からなくなってきた。もう脳が働かない。はやく人類消滅してくれないかな。「人類」なんてそもそも存在しない? たぶん半分だけ正しい。あいかわらず自分のポコチンの臭さにうんざりしている。いまオイラは自分のオナニー映像を世の中に流通させたくてしようがない。「100人のオナニー」って企画どうかな。「アダルトコンテンツ」としてじゃなくて、「現代人の性生活」に関する記録映像として残す価値があると思う。いわば「キンゼイ報告」自慰部門の付録映像みたいなものさ。いちおう伝統を踏まえるかたちで「男性編」と「女性編」に分けようか。100人いれば100通りのオナニーがあるはずで(「ぜんぜんしない」というのも一つのオナニーのありかた)、じっさいどれもこれも美的要素皆無で、無駄になまなましく、そうとうにキモいと思う。ひょっとするともう過去に似たようなものがあるのかもしれないけど、「オナニーは世につれ、世はオナニーにつれ」という諺があるくらいなので、こういうのは時代とともに変わるものなのであり、したがって「最新の記録」を世に出す必要はつねにあるのだ。そういえばむかし「松紳」という深夜番組で島田紳助が芸人仲間たちのオナニーを「隠し撮り」してあとでみんなで爆笑しながら見るという遊びをしたことについて話していたけど、僕も学生時代にあの顔も頭も悪い童貞野郎どもとそういうことをやってみたかったな。人生いろいろオナニーもいろいろで、オナニーの流儀にその人の醜悪的なところも魅力的なところもぜんぶ出てしまうような気がする。蟹がおのれの甲羅に似せて穴を掘ることしかできないように、人は自分の「実力」以上のオナニーはできない。しょうもない男はしょうもないオナニーをするだろうし、知的な男は知的なオナニーをするだろうし、気持ち悪い男は気持ち悪いオナニーをするだろうし、魔王的な男は魔王的なオナニーをするだろう。そもそも「パートナー」がいればオナニーなんかせずに「性交」するって? いやそれ他人の体をつかったオナニーです。 もう飯にする。図書館行ってヒトラー関連の研究書でも読もうかな。明日いつもより早く起きることになると思うので今夜はあんまり飲めないな。控えめにいって「人生」は緩慢なる拷問装置だ。自他の悲鳴が聞こえない瞬間はない。エックスに流れている文章はぜんぶ悲鳴である。振り向けば解剖室の宮﨑勤。ポルトガル語とスペイン語を勉強している。言うまでもないが勉強というのは「これからする」では遅すぎる。「もうしている」のでなければならない。ギミック雄一郎のおふくろにはもう抱かれたくない。あそこがゲンガーみたいなドドメ色をしていて、酢豆腐みたいな臭いがするから。中国大使館に侵入・脅迫したあの自衛官が起訴されたよう。いずれちゃんとした詳細を読みたい。ゴダールの『気狂いピエロ』が見たい。むろん無料で。でもYouTubeでは見れなさそう。