夜露乳首金玉崩壊日記

https://note.com/lively_hare846 ⇒「だいたい図書館にいます日記」(前前身)/https://etlh17y003rs.blog.fc2.com/⇒「無学チンコ日記」(前身)

たかが映画なんだけど、「あの安倍晋三でさえ~」話法、愛と憎しみの兎糞状便、

瀬那十五年五月十六日

 

男性秩序の力は、それが正当化を必要としない点に見てとれる。男性中心的な見方は、中性的なものとして当然のように受け入れられるのであり、わざわざその正統化を目指す言説のなかで表明されたりする必要がない。社会秩序は、みずからの基盤である男性支配を追認しようとする巨大な象徴機械として機能している。

ピエール・ブルデュー『男性支配』坂本さやか/坂本浩也・訳 藤原書店

 

午後十二時二十六分。コーヒー、カレー。「その日の便」をすべて出したあともS字結腸あたりに「残っている」(と思われる)コロコロ便についてこれといった策はまだない。カフェイン飲料もアルコール飲料もたくさん飲むものだから「腸内」が水分不足になりやすい(らしい)とはいえ、そのどっちもやめるわけにはいかない。きょくりょく水溶性食物繊維を多めに摂取すべきなのか。座業時間をもっと短くすべきなのか。徒歩時間を増やす? どれも凡庸すぎる。ググったら先頭のほうに出てくるリライト記事に書かれてありそうなことばかりだ。人工胃腸に切り替えて、スマホの操作一つで「その日の便」をすべて排泄できるようになりたい。今日も図書館に行かねばならない。原則定休日以外通い続ける。今週は一日も休んでない。ほとんど図書館狂人だ。便が出る。わりといい便。こんごこの日記から「書評部門」を切り離し、きほんFBで書いていくほうがいいかもしれない。本は読めば読むほど孤独になる。いい本ほど知的暴力性に富んでいる。ジュディス・バトラーなどを読んでしまったあとは、もはや以前の素朴さには戻れない。本という孤独化装置と親しくしまくっているミザントロープ同士が出会うことは難しいのかもしれない。余生を孤独に生きるとしてもそれはそれでわるくない。本について思う存分語りあえる友人など求めなくていい。僕のような冷たい人間といったい誰が付き合ってくれるというんだ。いま僕は僕とこれまでに知り合ってしまった人たち全てに同情を禁じえない。きょうは頭が全然働いていない。さっきから文章をひねり出すのに苦痛を感じている。こんな日は早々に退散するほうがよい。高市が首相になってから「あの安倍晋三でさえここまでひどくはなかった」といった「嘆き」を「左派界隈」でよく聞くようになった。いつか「あの高市早苗でさえ~」なんて言われる日がくるのだろうか。日本はそこまで堕ちるのか? 知的レベルの低い人間ほどファッション右翼に「騙される」。みんなもっと本を読もう。あれ、きのう映画なに見たっけ。ちょっと待って。『タッカーとデイル 史上最悪にツイてないヤツら(Tucker and Dale vs Evil)』だ。このごろ晩酌後に見るからすぐに思い出せない。都会在住者(大学生)の田舎在住者(タッカーとデイル)に対する偏見主体の恐怖心がエスカレートしていくなかで展開される残虐コメディ。わりと面白かったよ。ウッドチッパーに突っ込んだ男の下半身をタッカーとデイルが引きずっているところとか物凄かった。妙にコメディタッチだから余計に。アンジャッシュのすれ違いコントの過激&長尺版みたいだ、といった秀逸なコメントがあったけど、アンジャッシュなんてお笑いコンビはもう知らない人のほうが多いのかも。大学生グループのあのボス的な男の顔が苦手だ。ああいう傲慢な感じの男、日本にもいる。自分がいちばん賢いと思っているものだから同性の友人を手下みたいに扱うんだ。というわけで助演男優賞はあの大学生を演じた人に与えよう。単純に言えば、「世の大半の悲劇はコミュニケーション不足に起因している」ということなのかもね。しかしYouTubeの無料公開映画だけでこんなに満足できてしまうオイラは「真の映画好き」からすればそうとう堕落した存在なんだろうな。映画好きってなにかと能書きを垂れるのが好きだね。思うに映画という娯楽がこれほど特定の層を熱くさせるのは、それが彼彼女らの〝能書きスイッチ〟を押してしまうからなんだろう。僕としては映画を見て〝能書きスイッチ〟を押されないような人なんかと映画について喋っても仕方ない気がする。批評家ぶることの快楽を知らないなんてかわいそうだ。もう飯にする。スパゲッティでいいか。スパゲッティとはパスタの一種で、主に棒状のものを指す。パスタすなわち長いアレではない。短いものもある。褐色のものも茶色のものもある。要するにポコチンと同じだ。覚えとけ無学の短小野郎ども。

 

 

家畜人ヤプー化するジャパン、生活保護自動支給、有事の円買い、

瀬那十五年五月十五日

 

男にとってポルノに相当するものは、ボクシングだ。彼らは攻撃性を発揮して、金持ちの気晴らしのために体を危険にさらさなくてはならない。

ヴィルジニ・デパント『キングコング・セオリー』相川千尋・訳 柏書房

 

午後十二時十一分。ゼリー飲料、ミックスナッツ、インスタントコーヒー(ドトール)。さくやのトリスは80ml。悪酔いなし。毎日飲み続けていくときっと肝臓の負担が増し、アルコールの分解速度も低下していくので、せめて量だけは守ること。オイラは成熟した酒飲みだ。しみったれたと言い換えてもいい。じっさいこんな世界で長生きしないためにも人はもっと「体に悪い」ことをすべきである。長生きしないためなら僕はそのうち時代遅れの紙巻きタバコさえ吸いかねない。食塩は一日20g以上は必ず摂取しましょう。運動不足なんて気にするな。食いたいものはもっと食え。たいていの長寿はもはや罰ゲームでしかない。敬老の日だってもう一部では嫌老の日と呼ばれている。みんな醜悪な生き恥をさらすのは嫌なんだ。あらゆる「人生」は30歳で強制終了させられるべきだ。それ以降は老残に過ぎない。昨夜はピーター・リチャードソン『金持を喰いちぎれ(Eat the Rich)』(1987)を見た。サッチャー政権末期のイギリスで作られたグロ注意的ブラックコメディ。社会風刺がいちいちどぎついこの低予算映画にはなぜかポール・マッカートニーも出ている。その従業員としての態度の悪さによって仕事を奪われた労働者階級のアレックスが仲間を集めて反乱を起こす話。暴力装置を独占している体制側に弓で立ち向かう寓意が好き。たしかに最上位の人たちは「人間のミンチ肉料理」をまいにち食っている。たしかに世の大半の労働者は原材料でしかない。その原材料たちを結束させない巧妙な分断工作的仕組みがもうがっちりと整えられている(限りある雇用機会をめぐって競わせるとか、「働く意味」の啓発的内面化とか)。ちかごろでは革命なんてもう流行らなくなった。「働かない俺たちをたらふく食わせろ」と国会前なんかで叫んでいる人がいるだろうか。そもそもそんな発想が貧乏人たちの頭をよぎることはないのだ。油断すると「非生産的」なままでいる自分を責めるよう強いられてしまう。生きていること自体の構造的空しさをラディカルに捉える観点がもう奪われている。貧乏人の脳ももうハックされている。僕だって半分そうだ。A.R.ホックシールドがさいきん『盗まれた誇り(Stolen Pride)』という「アメリカの政治的分断」をテーマとした本を出したが、「誇り」よりも激しく盗まれてるのは「正しい厭世」なのだとオイラは言いたい。「正しい厭世」が盗まれたままだとどうしても人は「この世界」のなかでしかるべきポジションを得ようとあがいてしまう。自分よりもひどい境遇にある弱者を蹴落としてまで生き残ろうとしてしまう。挙句の果てには「次世代」を作ってしまう。消極的暴力の悪夢的再生産。理性に貫かれた「厭世」によって結託することができない。「もううんざりだ、生きていること自体が拷問なのに、どうしてそのうえこんな糞みたいな仕事をしないといけないんだ」と「体制」に対する反乱の準備をはじめることができない。村田沙耶香の『世界99』下巻みたいに、怒りや不満は「汚い感情」として見なされるようになりつつある。誰もが自らその「抑制」に(無自覚的に)努めるようになっている。「ネガティブなことは言わない」という自己去勢的美学に陶酔している人のなんと多いことか! いまの日本で「冷笑」と言われているものは基本的に、「社会」や「政治」に向けた怒りの無力化装置でしょう。そうしたことを通して、「正気ではないあの人たち(異常)/冷静にそれを眺めている自分たち(正常)」というかたちの線引きがなされ、既存の言論・政治秩序が維持・強化される。辺野古沖での事故を利用したあの執拗かつ陰湿な反基地運動攻撃を見ていると、ますますそう思う。「〝生きにくさ〟を政治や社会のせいになんかするなよ、〝幸福〟はどこまでも個人的なものなんだ、そもそもこの世には個人しかいないのであって、社会なんか幻想なんだからね」という催眠術。「デモなんかやったって社会は変わらない、いまの日本を支えているのはデモなんかに参加しないで黙々と働いている人たちなんだ」という催眠術。「株価が上がらないと結果的に日本は貧しくなる、法人税引き下げはむしろみんなのためにも合理的、低所得者はこのへんのことをわかっていない」といった催眠術。もう書くことがない。マルシンハンバーグをチンして食べよう。図書館には原則午後3時半~4時に入ることにする。ポコチンが痒い。そして臭い。世界中の貧者どものポコチンを切り落とし、ミキサーで液体状にして、金持どもに飲ませたい。虹色の放尿。コイキングの刺身。

 

 

著名な作家の書いた文よりフォロワーもほとんどいない無名の人の文のほうが沁みる。、トリスの適量は80~100ml、白黒タカイチ、

瀬那十五年五月十四日 

 

正午。PINを入力した後の「おまちください」のグルグルに待たされる。強制終了はもうしたくない。もう今週だけど十回以上はしている。なんとかローカルアカウントにしたのに、まだこんな仕打ちに遭わねばならないのか。Windowsのプログラムが不安定になっているらしい。あとでスタートアップ設定をいじってみる。どこかで無駄な負荷が発生しているのだ。頻繁に思い通りにならなくなるPCより紙の本と関わる時間を増やしたほうが「精神衛生」にいいのは明らかだ。紙の本は「OSの不調」などで開けなくなることなどないし「ブラウザの不調」で文字が表示されなくなることもない。いわゆる「デジタル疲れ」は紙の本を読めば治る、とオイラは声を大にして言いたい。僕たちはふだん、自分だけでは手に負えないブラックボックス的システムに身を預け過ぎなのだ。マイクロソフトから「締め出し」を喰らい、数々の認証ハラスメントを受けて満身創痍となった今では、活字に触れるたび「実家のような安心感」を覚えざるをえない。もっとも「本当の実家」はそこまで安心できるところではない(定期)。『山海経』の「燭陰」という神のことが気になる。目を開けば昼となり、目を閉じれば夜となる。超かっけー! 今次のナフサ不足によりカルビーのポテチのパッケージが白黒になるといった記事がどこの全国紙にも見られる。あらゆる媒体で面白ネタ的に報じられているので、新手の宣伝としか思えないのだけど、必ずしもそうともいえないようだ。パッケージに色があるうちに買っておきたくなる奴らがきっと出てくるだろう。気鬱がひじょうに強い。そろそろ旅がしたい。スイカにチャージして電車に乗ったりバスに乗るのもいいけど、たかが空間移動で金銭を支払うのは嫌なので、徒歩のほうが好ましい。オイラが日本一の健脚男であることは間違いない。むろんオナニート部門の。徒歩で行けるところにも「見たことのない風景」はたくさんある。見慣れるということは一種の堕落なんだ。旅といえばやたら遠くへ行きたがるのは、金を払えば美味いものを食えるという発想に近く、幼稚である。この部屋について、「昨日から住み始めた」という新鮮な気持ちになることも不可能じゃない。気鬱と倦怠はいつも行動を共にしている双子の姉妹のようなもので、どちらか片方だけが現れるということはほとんどない。旅と酒は「人はもともと孤独で寂しい生き物である」ということを浮き彫りにする。とりあえず東尋坊にでも行くか。でもきょうは図書館に行く。図書館がオイラを待っているから。ポコチンがくさい。

 

貯金残高、知識残高、

瀬那十五年五月十三日 

 

彼はこういう考え――それも案外ばかにならない考えであるが、何かの大病あるいは深刻な煩悶に悩まされている人間は、それと一緒にほかのあらゆる病気あるいは深刻な煩悶を免除されるという考えに基づいて生活しているように見える。

カミュ『ペスト』宮崎嶺雄・訳 新潮社

 

午後二時五十二分。いつもより早く起きて回転すし、百均とドラッグストアで買い物。夏日と言いたくなるような日。ボクサーブリーフだけでも問題ない。どう考えても長袖で外出すべきではなかった。もう半袖を出そう。今夏は暑くなるだろう。エルニーニョ現象だかなんだか知らないけど。このあと書くもの書いて食うもの食って出すもの出したら図書館に行くべきか。古書店にでも行こうか。FBで「読んだ本を0円で本を譲ります」を始めて、「開館日は原則午後四時以降はいる」ということになっているので、気が乗らなくても行かなくてはならない。とうぶんは(というかきほんずっと)誰も反応しないだろうけど、そもそもこういうことを始めたのは怠け癖の強い自分を図書館に通わせ続けるための方便に過ぎない。私にとって「生きる」とは読むことだ。ペットボトルのトリスは冷蔵庫に入れることにした。劣化も防げるし、タンブラーに注いだ後のアルコールの揮発もいくぶん抑えられるような気がする。蒸し暑くなってくるとパックの卵は買わないことにする。細かい虫が湧くのが嫌なので、生ゴミがきょくりょく出さないようにする。やはり僕の生活に晩酌のひと時は欠かせない。「生きる」とは読むことであり闘うことだ。オナニートは一度敷居を跨げば敵だらけ。隣に越してきたのはババアだな。さっきから玄関前で旦那らしいおっさんと喋っている。喋り方からしていかにも品も学もなさそうなババアだ。若いころに本を読みまくらないとこうなる。その人の喋り方って顔や服装や喋る「内容」なんかよりもずっと「その人自身」をさらけ出すよね。残酷なくらい。「沈黙は金」という言葉はまさにその前提で成り立っているのだとさえ思う。早く起きたけど頭はわりとはっきりしている。そろそろ閲覧室に復帰してもいい。いつまでも新聞コーナーに張り付いているわけにはいかない。だっふんだ。みんな自粛警察になろう。

 

マイクロソフト製品はもう使いたくない、Windows植民地から脱出したい、

瀬那十五年五月十二日 

 

マイクロソフトの糞馬鹿うんこセキュリティの誤作動(というか暴走)のせいで、昨夜入浴後の時間の大半を奪われた。PC放棄さえ考えたけどなんとかスマホ経由の生体認証などで「疑い」が晴れた。あの時価総額約3兆ドル(約470兆円)テックジャイアントは企業や官公庁なども主要顧客にしているからか、セキュリティ基準が法人向けに最適化されている。だから「不審なサインイン」に過敏だ。オイラみたいな単なる個人ユーザーがちょっとしたことで締め出される。そして無能botによる果てしない認証ハラスメントが始まる。だいたいなんで自分のPCなのにサインインなしでデスクトップにさえ行けないんだ。いつからPCはマイクロソフトの領土になったんだ。前世紀の植民者かお前は。ガードが固いのはいい。世の中にはヤバい奴らもいっぱいいるからガバガバよりはずっとまし。要するにその出来損ないのシステムをなんとか改善しろってこと。間違えてロックされたまともなアカウントを復帰させるのにどれだけ煩雑なブルシット作業を強いるんだよ。明らかに個人ユーザー軽視。買ってまだ二年も使ってないPCを危うく床に叩きつけそうになった。こんかいのことでマイクロソフトという会社に対する僕の信用は急落した。もともとそんなに高くなかったのに。エリン追放の件で。またあんなことになったらオイラはマックユーザーになって、マイクロソフト製品は死ぬまで使わないことにする。そんなこと可能かな。「経済的に恵まれている」とはつまり「WindowsPC」を使わなくても済むということだ。じっさい「WindowsPC」で脱Windowsする方法はいくつかある。けっきょくWindowsは「情弱」向けOSなのだ。学生時代から僕はずっとWindowsに囲い込まれている。その問題点を認識しながらも惰性でそこから脱しようとはしなかった。そろそろWindows植民地を脱するときだ。

Redditでも怒っている人の多い「サインイン無限ループ」

もうそろそろパスタ食って図書館に行く。

セカイノオワリ幻想、自己周縁化、ギミック依存、 quod erat demonstrandum、

瀬那十五年五月十日 

 

花びらに舌打したる蛙哉

丸山一彦・高注『新訂 一茶俳句集』岩波書店

 

午後十二時五十一分。チンした木綿豆腐、紅茶。また愚かな夜更かし癖が頭をもたげつつある。少なくとも午前2時50分には横になって目を閉じること。寝たふり作戦。午前中にPCを立ち上げることにさえこれほど困難を感じざるをえないオイラが世界を変えられるはずなどないだろう。このごろの僕はどうかしている。昨日など「こだわり酒場」を飲みながら、再開したばかりのFBのニュースフィード(主としてBBC)を廃人のようにずっと読み続けていた。人の注意と時間を奪えるだけ奪おうというSNSの利益最大化戦略。「赤い通知」に脳をハイジャックされ、リアクションという「生きていてもいいよ」ポイントに渇した半ゾンビの群れ。緩慢な白痴化。しかしあのようなSNSの恐怖設計は「われわれ」の大半が既に常に「孤独に苦しみ〝人生〟に飽きている」ということを単に可視化させただけだ。繰り返すけど問題は「〝人生〟の安定した質の悪さ」なのであってテクノロジーではない。何かにつけてAIやSNSに責を負わせようとしている人たちは、精神疾患を個人の特性に還元して論じたがるあの鈍い人たちにどうしようもなく似ている。そういう人たちにとって鬱病の要因は「生き方」や「考え方」、あるいは「両親の育て方」や「脳内の神経伝達物質」や「社会の仕組み」の問題なのであって、「存在していること」そのものだとはさいごまで考えない。ニコチン依存症やアルコール依存症やギャンブル依存症だって、あるいは若者たちの間で広がっているという(市販薬などの)オーバードーズだって、そもそも〝人生〟の質がこれほど悪いものでなければ、ここまで「社会問題」化しただろうか。僕は誰もが既に薄っすらとは共有している「まっとうなペシミズム」をただ誇張気味に語っているに過ぎない。要するにオイラは道化師なんだ。きょうからまたちゃんと読書しよう。映画は見ても見なくてもいいけど、せめてウェーバーの『プロ倫』を読み進めないと。そろそろいちど旅でもしてこの乱調気味の頭をどうにかしたほうがいいかもしれない。インドに行きたいところだけど貯金は十万円もないし、パスポートを取るのも億劫なので、ILLAYの聖地浜松にでも行くか。浜松ならたぶん高速バスで行けるだろう。学生時代、自死するために電車でたどり着いた新潟を一晩中さまよっていたことがあった。新潟駅で乞食みたいな自称プータローの中年女に声を掛けられ、すぐ近くにあったドン・キホーテでコーラとアイスをおごったんだ。「お兄さんどう」的なことを言ってたので、きっと彼女は「そういうこと」を毎晩していたのかもしれない。どう考えても自死なんて遠くへ行かなくてもできるんだがあのころのオイラには妙に自己演出的なところがあった。ジェリー藤尾『遠くへ行きたい』もひんぱんに脳内再生されていたし。そうだ、僕には学生時代からある種の「アパシー癖」が根強くあった(ほんとうはそれ以前からあったのだけど顕在化したのはこのころからだ)。しばしば「特に何の理由もなく」抑鬱に苦しめられていた。「この先には何もない」という直感に裏付けられたなまぬるいペシミズムに苦しめられていた。「この先には何もない」というよりはむしろ、「すべてはもう終わっている」といったほうがいい。問題は「すべてはもう終わっている」はずなのにどうしてこれほど解放感に乏しいのだろうということだ。終わっているのならただ安らかにそのことをことほげばいいだけではないか。もうご飯を炊こうか。食ってからきっと図書館行く。PCの前にはあまり長くいたくない。足元からじょじょに腐っていくような気がする。こんや久しぶりにトリスクラシックを買おうか。量さえ間違わなければ問題ないだろう。でもいまの「精神状態」だとまずいかな。どうするおれ。おれどうする。証明オワリ。振り向けば泣きっ面のビビンバ。