瀬那十五年五月十六日
男性秩序の力は、それが正当化を必要としない点に見てとれる。男性中心的な見方は、中性的なものとして当然のように受け入れられるのであり、わざわざその正統化を目指す言説のなかで表明されたりする必要がない。社会秩序は、みずからの基盤である男性支配を追認しようとする巨大な象徴機械として機能している。
ピエール・ブルデュー『男性支配』坂本さやか/坂本浩也・訳 藤原書店
午後十二時二十六分。コーヒー、カレー。「その日の便」をすべて出したあともS字結腸あたりに「残っている」(と思われる)コロコロ便についてこれといった策はまだない。カフェイン飲料もアルコール飲料もたくさん飲むものだから「腸内」が水分不足になりやすい(らしい)とはいえ、そのどっちもやめるわけにはいかない。きょくりょく水溶性食物繊維を多めに摂取すべきなのか。座業時間をもっと短くすべきなのか。徒歩時間を増やす? どれも凡庸すぎる。ググったら先頭のほうに出てくるリライト記事に書かれてありそうなことばかりだ。人工胃腸に切り替えて、スマホの操作一つで「その日の便」をすべて排泄できるようになりたい。今日も図書館に行かねばならない。原則定休日以外通い続ける。今週は一日も休んでない。ほとんど図書館狂人だ。便が出る。わりといい便。こんごこの日記から「書評部門」を切り離し、きほんFBで書いていくほうがいいかもしれない。本は読めば読むほど孤独になる。いい本ほど知的暴力性に富んでいる。ジュディス・バトラーなどを読んでしまったあとは、もはや以前の素朴さには戻れない。本という孤独化装置と親しくしまくっているミザントロープ同士が出会うことは難しいのかもしれない。余生を孤独に生きるとしてもそれはそれでわるくない。本について思う存分語りあえる友人など求めなくていい。僕のような冷たい人間といったい誰が付き合ってくれるというんだ。いま僕は僕とこれまでに知り合ってしまった人たち全てに同情を禁じえない。きょうは頭が全然働いていない。さっきから文章をひねり出すのに苦痛を感じている。こんな日は早々に退散するほうがよい。高市が首相になってから「あの安倍晋三でさえここまでひどくはなかった」といった「嘆き」を「左派界隈」でよく聞くようになった。いつか「あの高市早苗でさえ~」なんて言われる日がくるのだろうか。日本はそこまで堕ちるのか? 知的レベルの低い人間ほどファッション右翼に「騙される」。みんなもっと本を読もう。あれ、きのう映画なに見たっけ。ちょっと待って。『タッカーとデイル 史上最悪にツイてないヤツら(Tucker and Dale vs Evil)』だ。このごろ晩酌後に見るからすぐに思い出せない。都会在住者(大学生)の田舎在住者(タッカーとデイル)に対する偏見主体の恐怖心がエスカレートしていくなかで展開される残虐コメディ。わりと面白かったよ。ウッドチッパーに突っ込んだ男の下半身をタッカーとデイルが引きずっているところとか物凄かった。妙にコメディタッチだから余計に。アンジャッシュのすれ違いコントの過激&長尺版みたいだ、といった秀逸なコメントがあったけど、アンジャッシュなんてお笑いコンビはもう知らない人のほうが多いのかも。大学生グループのあのボス的な男の顔が苦手だ。ああいう傲慢な感じの男、日本にもいる。自分がいちばん賢いと思っているものだから同性の友人を手下みたいに扱うんだ。というわけで助演男優賞はあの大学生を演じた人に与えよう。単純に言えば、「世の大半の悲劇はコミュニケーション不足に起因している」ということなのかもね。しかしYouTubeの無料公開映画だけでこんなに満足できてしまうオイラは「真の映画好き」からすればそうとう堕落した存在なんだろうな。映画好きってなにかと能書きを垂れるのが好きだね。思うに映画という娯楽がこれほど特定の層を熱くさせるのは、それが彼彼女らの〝能書きスイッチ〟を押してしまうからなんだろう。僕としては映画を見て〝能書きスイッチ〟を押されないような人なんかと映画について喋っても仕方ない気がする。批評家ぶることの快楽を知らないなんてかわいそうだ。もう飯にする。スパゲッティでいいか。スパゲッティとはパスタの一種で、主に棒状のものを指す。パスタすなわち長いアレではない。短いものもある。褐色のものも茶色のものもある。要するにポコチンと同じだ。覚えとけ無学の短小野郎ども。

