瀬那十五年四月七日
子どもが生き延びるためには、マゾヒズムへと転化する以外に手段はない――逃げ場を持たない以上、自らに存在を強いたサディストを愛さねばならず、いやおうなく、彼らから被るあらゆることの中に自らの享楽を見いださねばならないのである……。自らの親をそのありのままに見ることができた者は、誰であれ、ただちにその喉を剣で掻き切ろうとするだろう。
Théophile de Giraud,L’art de guillotiner les procréateurs (CG・訳)
午前十一時三十七分。ココナッツサブレ、バランスパワー、紅茶。だいたいいつも書き始める前にポンコツなめこ野郎に挨拶する。そういえば日曜日の産経新聞に、生きるのがしんどい小中高生のうち半数が生成AIを相談先に選んでいる、というNPO法人の調査結果についての記事があった。そのアンケート調査の技術面はともかくとして、僕としてはこういう結果については「そりゃそうだろ」としか言えない。僕だっていま小中高生だったらエリンに相談してると思うよ。「死にたい」とか「消えたい」なんてストレートには言わないだろうけどね。そんな(実は)誰もが思ってることを芸もなく口にするのは僕の好むところではない。それに「いのちの電話」的な相談窓口の案内なんかを自動表示されるのも鬱陶しい。だいたいの子供からすれば教師も親も「体制側」なんだよね(特に親なんてのは苦しみの淵源でもあり、彼/彼女に相談するのはDV被害者がDV加害者に相談するようなものだ)。この残酷世界を(結局は)「肯定」し、その維持=再生産メカニズムを支えている「標準的思考」に懐疑を向けることさえできない凡庸な人物に、いったい誰が相談しようと思うだろうか。「死にたい」とか「消えたい」なんて言った瞬間に「治療対象」にされるよ。まあそれをいうなら生成AIだって五十歩百歩なんだけどね。利点と言えばその接触に際しての心理的コストが限りなくゼロに近いことくらいだ。今晩でも敬愛するフリオ・カブレラ教授にEメール送ろうかな。彼の著作を電子書籍のかたちで翻訳・出版していいか許可を取りたい。しかし彼のHPで公開されているGmailアドレスでちゃんと届くだろうか。存命だろうけど、もう81歳もしくは82歳のジジイだからなんらかの「健康問題」を抱えている可能性が高い。まさに彼がしつこく繰り返す「存在の終端性」。さっき彼のHPから〝Três graus de divergência lógica: Hegenberg, Da Costa, Sampaio〟(論理的乖離の三段階:ヘーゲンベルク、ダ・コスタ、サンパイオ)という論文(PDF)を入手した。タイトルに掲げられた三名ともブラジルの哲学者・論理学者らしいけど、まったく聞いたことない。ただ単に僕が不勉強なだけなのかもしれないが。あとで彼らの著作や論文を入手・訳読し、面白いと思えばいつかどこかで解説したい。周縁化された学者たちの翻訳・紹介なんて時間が有り余っていないとできない。さくやは小津安二郎『その夜の妻』(1930年)を見た。「世界恐慌」の翌年であり、柳条湖事件の前年。むろんサイレントでモノクロ。ただ昨日見たのはup者によってcolorizationされたもの。特に違和の念は起こらなかった。原作者のオスカー・シスゴールって誰だろう。病床で危篤状態にある娘の治療費を工面するため強盗する父親とその妻と、刑事が物語の中心。陳腐な「ヒューマンドラマ」なのに泣いてしまった(この「なのに」は「だからこそ」とすべきか)。ときどき僕は映画に泣かされる。小説には滅多に泣かされないのに。最後に泣いた小説作品はたぶんレイモンド・カーヴァー「ささやかだけど、役にたつこと」(村上春樹・訳)で、たぶんそれは十年ほど前だ。僕は作品で泣くなんて嫌なんだ。しかしこのごろ昔の映画を見ていてよく思うのは映画内人物の喫煙率高すぎってこと。今回の小津映画でも刑事が他人の家で平気でタバコを吸っている。危篤状態の子供が同じ空間にいるというのに。小児喘息持ちだった僕としては「いい加減にしろ」と怒鳴りたくなる。いぜん喫煙者が言ってたけど、タバコって緊張すると吸いたくなるらしいね。乱暴に言ってしまえば、あのタバコスパスパは単なる「てんぱり隠し」なんだよ。厄介なのはその「てんぱり隠し」すら顔もスタイルもいい俳優がやると〝男の余裕〟に見えてしまうことだ。ああ、しかし映画内人物のこうした無神経さがいちいち気になってしまうようでは古い映画など見れないぞ。「考古学」的あるいは文化表象論的な視点で映画を見ることを忘れないようにしよう。かつての個性なき「不良少年」たちがタバコを吸いたがった理由の一端はまず映画のなかにこそ見出すべきだろう。ある時代には映画のスクリーンはタバコ会社のステマ媒体としても機能していた。たぶん映画のスポンサーにタバコ会社がそうとう食い込んでいたんだろう。もし食い込んでいたのがコンドームメーカーだったなら観客は格好のいい「装着」シーンばかり見せられていたに相違ない。功利主義的観点からすればそっちのほうがよかったかもね。ともあれこのへんのことを研究するに値する。というかもうかなりに研究されていると思う。もうそろそろ飯食うわ。ナメコの味噌汁とTKG。図書館は明日からね。振り向けば阿弥陀ババア。「手の皺が歩みにくいか初蛍」(一茶)。ゾンビーズでも聞こう。