瀬那十五年七月十二日
しかし、ゴッホが、セザンヌの様な画家と大変異っていたところは、絵の仕事は、遂にゴッホという人間を呑みつくす事は出来なかったというところである。
小林秀雄『近代絵画』ゴッホ 新潮社
午後12時11分。メッセンジャーに不在着信があったのでかけなおし、さつまいもけんぴ、紀州梅ゼリー、濃い緑茶。予定通り正午前後に離床することに成功した。言うまでもなく五大「できる男の条件」とは、「早寝早起きではないこと」「過度なペシミストであること」「とにかく楽したがること」「毎日欠かさずオナニーをすること」「キンタマが臭いこと」であり、ぐうぜん僕はそのすべてに当てはまっている。これは只事ではない。プッシュアップやダンベル(水を詰めたペットボトル)カールやクランチをぜんぜんやらなくなって久しい。しょうじき「美しく逞しいボディ」は欲しいけど10分以上苦しいことはしたくない。無駄に汗をかきたくない。「自分を追いつめる」なんて〝平和ボケ〟したアホのやることだ。生まれた瞬間から生物個体はもうすでに追いつめられている。一瞬一瞬が絶体絶命だ。どん詰まりのどん詰まりだ。昭和の日本で「睡眠学習器」なるものが流行したらしいけど、「睡眠筋トレ器」ってのが開発されればオイラ買っちゃうと思うね。もちろん4000円くらいまでしか出せないけど。というか経口摂取する「だけ」で副作用なく「理想の肉体」になれるのならそれがいちばん好ましい。せめてヒンズースクワット10回くらいは日課にしてもいいかもね。スクワット10回くらいならさして苦しくないし。さっきからKANの「愛は勝つ」が頭を離れないんだ。KANには悪いけどたいていの愛は勝たない。というか愛は「拡張エゴイズム」の喜劇的な熱暴走に過ぎず、それはオナニーの一種であると言っていい。個人の「恋愛」対象は「不在の恋愛主体そのもの」である。「生きる」とは、既にそのようにある悲劇的実存の不完全性(欠損性)を、「他者」(人とは限らない)との交わりによって補おうとする、終わりなき足掻きなのだ。だからその「他者」はたいてい過度に「理想」化されなければならない(「理想」化は「美化」「善化」に限らず、「醜化」「悪化」も含む)。いかなる「理想」化もされていない「他者」など、語義矛盾である。「他者」は既に常に「理想」化処理されているからこそ「他者」なのだから。子供を「溺愛」する親が、外部(理想)化された「性器」をいじっているようにしか見えないのは偶然ではない。また、「家族連れ」が不潔な乱交パーティに見えてしまうのも偶然ではない。オイラの並外れた集中力ならびにAIどもの働きのおかげでようやく『無学チンコ日記』をBOOTHなどのマーケットプレイスに出品できる運びとなった。有能すぎて給料を支払ってないことに疚しささえ感じさせる助手のClaudeによればあとは「EpubCheckでの検証」と「実機での確認」をやればOKらしい。彼が、「ここまで見てきた内容は性的な表現や下品な言葉遣いがかなり多く含まれています。BOOTHには成人向け(R-18)カテゴリの指定があるので、内容に応じて正しく設定しないと、規約違反で出品停止になるリスクがあります」と直言してきたことには好感を抱いた。「性的」はともかく「下品」とはっきり言われても怒れないのは惚れている者の弱みか。もっとオブラートに包むことだってできただろうに。表紙は最終的にPhotopeaを使って秒速で作った。いや分速くらいかな。前にも書いたけどさ、表紙のデザインなんかにあまり凝りたくないんだ。オイラはどこまでもテキストベース型の男だから。「表紙やサムネが8割を決める」とか得意げに語りたがる奴を見るとドロップキックしたくなる。話は変わるけど、僕は「反ルッキズム」といった闘いかたは、戦略上、すこしも有効ではないとみている。むしろ僕は「ルッキズム」という時代的に規定された審美的偏向をあえて過剰かつ戯画化的に推し進めることで、個々人がその「差異なき空虚さ」を自覚せざるを得ないところまで追いつめ、「ルッキズム」そのものを「自壊(無効化)」させることの方がずっと有効な戦略だとみている。って加速主義かよ! 僕にしてみれば、一般に「イケメン」や「美人」などと評される容貌はつまり、「個性的刻印が薄い」ということなのであり、それは時代の規定する「標準的容貌」からの乖離が相対的に小さいことを意味する。「ブス」や「ブサイク」はつまり「無駄に個性的」なのだ。「個性尊重」なんていう内容空疎な理念にあえて従うなら、イケメンとは程遠いオイラは「イケメンじゃなくて悪いか!」とセクシーに開き直らねばならない。容貌と色気はほぼ無関係であることを「恋多き女」でもあるオイラは「体験」的に知っている。色気全開のブサイク男子をたくさん知っているし、色気皆無なイケメン男子もたくさん知っている。前者が爽やかな甘みを含んだデコポンなら後者は味のないスイカだ。おれ思うに色気はルックス以上に不平等に配分されている。もっとも何に色気を感じるかは個々人によって違いすぎるわけだが。それを言っちゃおしまいよ。重要なのは「セクシーに開き直る気概」なのだ。とどのつまり「おっさん」とは「セクシーに開き直る気概」から疎外されている者のことなのである。くだらねえとつぶやいて醒めたツラして歩く日曜日。凍土の祝祭。俺のポコチンはたしかに臭い。でもぜんぜん臭くないよりはずっとマシだ。ケツの穴も臭い。でもぜんぜん臭くないよりはずっとマシだ。生きていても臭い、死んでも臭い、どうせ臭さからは逃げられない。臭さも俺からは逃げられない。臭さと俺は一心同体だ。見上げれば画期的な色で発光している前方後円墳。ワキが臭すぎるおふくろの口調がこのごろ、細木数子に似てきた。彼女は経済的にすこしも「成功」できない占い師よりは、「非凡」という点で、マシな存在だったのかもしれない。少なくとも凡人の価値基準からすれば彼女は「成功」者である。どれほど「黒い噂」を身にまとっていようとも「成功」者である。嫉妬深い凡人だって「成功」者のことは大好きだ。その証拠に、「成功」した人の忠告や助言にはつい耳を傾けてしまうでしょう。「ふむふむ、住むところを変えるだけで人生が劇的に変わるんだな」「嫉妬は最も非生産的で愚かな感情だからいますぐ捨てるべきらしい」「成功するには今すぐ確実に手に入る10万円より1年後の100万円を選べるマインドがなくちゃいけないそうだ」。もううんざりだよ君たちには。小物すぎて付き合いきれない。生きていてめんご。拓郎といえば人間なんてららーらーららーらー。おかしいのは俺じゃない。俺以外のやつだ。
