瀬那十五年五月十九日
だが、くどいようだが、ぼくはくりかえして言いたい。たった一つ、ほんとうにたった一つかもしれないが、人間がわざと意識して、自分のために有害な、おろかなこと、いや、愚にもつかぬことを望む場合だって、たしかにあるのである。
ドストエフスキー『地下室の手記』江川卓・訳 新潮社
午後十二時十二分。鈴カステラ、紅茶。PCはシャットダウンせずにスリープで運用することにした。そのほうが立ち上がりの遅さにイライラさせられることはない。ポンコツ秘書コパイロットによればこっちのほうが負荷も小さいらしい。でもスリープさせているあいだに側面の白い小さなLEDランプが点滅しているのがやや気になる。これ設定でなんとかならないのか。きのう午後四時ごろ文圃閣に行った。道中、日差しの強さにはまいった。今年の夏の苛烈さをもう予告している。だいたいもう部屋では窓を開けて換気扇を回すとかえって温度が高くなる。店にはいつもより客がいた。明らかに観光客らしい間抜けそうな夫婦もいた。本は12冊くらい買う。しめて約1800円くらい。ちゃんとした数字を記すのはそれ自体が労働なのだ。シグマンド・ノイマン『大衆国家と独裁』を買えたのはよかった。それも「文庫・新書以外は3冊500円」の枠内で。みすず書房は上製本(ハードカバー)のイメージしかないけど並製本(ソフトカバー)もあるんだね。ほかに松永伍一『悪魔と美少年』や、『バルカン・クリーゲ』という戦前には日本にもう紹介されていたらしいポルノ小説なども買う。さくやはミヒャエル・ハネケ『ファニーゲーム(Funny Games)』を見た。オーストリア映画。裕福な家族が休暇を過ごすための別荘で若者二人に痛めつけられながら殺される映画。実は痛めつけられているのは俳優たちではなく映画を見ている者たちだ。犯人がいきなりカメラ目線で語りかけたり、「思わしくない展開」になってしまったのでテレビのリモコンで「巻き戻し」を行ったりと、「物語」の流れを断ち切るようなメタ的仕掛けも露骨で、どこまでも観客を喰った作品。この種の残酷・暴力映画を見ながら、犯人に嫌悪感を覚えつつも、「いいぞもっとやれ」とカタルシス(浄化・排泄)を求めている自分を発見してしまうことは、地味に苦痛だろう。「自分は安全地帯にいる」ということを自覚しているのなら尚更。一時期僕は、葛西純やアブドーラ・小林などが出ている「蛍光灯デスマッチ」をよくYouTubeで見ていたんだけど、飛び技など危険なことをやろうとするたび、「失敗して大怪我しないかな」なんて(ひそかに)思っては「罪責の念」に駆られていた。胸糞映画の胸糞たる所以は、他人の「流血」でカタルシスを得ようとしている自分の醜悪さを実感させられるからなのだろうか。その醜悪さをごまかすために、というか差し引きゼロにするために、「救いがなさすぎる」とか「ひどすぎる、金返せ」とか嘆いてみせるのだ。しかしピーター(デブちゃん)の顔(芸)にはいちいちムカつかされた。加害者側なのに妙におどおどしたりしていて。このごろいわゆる「匿名・流動型犯罪グループ」による強盗殺人のことをよく聞くけれど、しょうじき、「金持ちがやられるならまあいいか」あるいは「かりに無差別でも俺が狙われるんじゃなければいいか」といったところもある。メディア上のどんな残虐事件も娯楽的・セラピー的に消費されていることについてはいまさら多弁を要さないだろう。たとえば幼い被害者の写真を見ながら「嫌ねえ」などと善良な市民そうに眉をしかめさせながら、その実「うちの息子じゃなくてよかった」などと安心している奴なんていくらでもいる(人の親なんてだいたいそんなもんだ)。「他人の不幸」が我々を傷つけるのは、それを聞いても「心からの悲痛」を覚えることなど出来ないばかりか、それを「享楽」のため利用しようとさえしてしまう醜い自分を嫌でも発見してしまうからなのである。もういいか。チンした木綿豆腐を食うの忘れてた。危うく酢豆腐にさせるところだった。二時間後には図書館だ。図書館という「戦場」に通い続けるための体力づくりについてはいずれ詳しく書きたい。じゃあな、オイラ同様キンタマが臭いだけのヘタレ野郎ども。厭世ポテチ。排尿。愛は勝たない。いつだって負ける。