瀬那十五年五月十八日
被支配者は、支配者の視点から構築されたカテゴリーを支配関係に適用する。それにより、支配関係は自然なものに見えてしまう。これは一貫した一種の自己卑下、さらには自己否定へとつながりうる。
ピエール・ブルデュー『男性支配』坂本さやか/坂本浩也・訳 柏書房
午後十二時三十七分。お菓子、紅茶。休館日。休館日だけは「いつもより30分程度遅く離床してもいい」という特例の恩恵に与れる。今週も開館日はぜんぶ行くだろうから、これ書いたら、古書店にでも行く。ただ時間的に文圃閣は難しいかな。さいきんひさしぶりにFBを再開したけどいつみてもアイコンに緑のバッジのある「アクティブ状態」の人が一定数いる。「本当にオンライン」なのかは分からないけど、あれは嫌な仕様だ。「私は暇人です」と触れ回っているようなものだから。なんであれSNSってのは人間関係資本にも乏しい貧乏人にとってはひじょうに危険なツールだ。そんな人たちにとって「いいね」の数は「死活問題」だ。それは「生きていてもいいよ」ポイントに脳内変換される。なんでもいいから「使命感」のようなものを自らに課し続けていないと、あの巧妙のアテンションエコノミーの大渦に吸い込まれてしまう。FBはきほん連絡媒体であり、僕は一週間に一度(休館日の前日)だけ「生存報告」的投稿をするにとどめたい。SNSに「賢い使い方」などない(そうしたことを聞いてもないのに指南してくる人たちは絶えないが)。「そこまで愚かではない使い方」があるだけだ。栃木の「強盗殺人」のことが気になっている。16歳って読み盛りじゃん。本も読まないで何してんだろう。というオイラは16歳の頃そんなにガツガツ読んでなかったけどね。白球を追いかけるのに夢中だった。野球部でもないのに。さいきんヤフーニュースでは妙に落ち着き払った「専門家」や「識者」の可もなく不可もない「解説コメント」がまずしゃしゃり出てくるので、ほんらいのあの猥雑性が表面上は薄くなったように思う。これも仕様の問題か。まああんな学のない愚民どもの糞コメントなんかそもそも表示させなくてもいいんだけどさ。だいたい頼まれてもないのにウェブ上に何かを書きたがる奴が多すぎるんだ。どいつもこいつも一流の読者である前に三流以下の作家になろうとしている。賢明な消費者である前に愚劣な生産者であろうとしている。大して他人のものを読んでもいないのに他人にむかって何かを書きたがる。世界情勢について語り政治について語り映画について語り本について語り酒について語り最新OSについて語り・・・。実は書きたいことなどないのに書きたがる。「何が何でもこれだけは言いたい」という情熱などこれっぽちもないのに書きたがる。Hatenaもnoteも自称作家の吹き溜まりだ。「ごくいちぶの人間しか自分の書いたものを発表できない時代はそれはそれでよかった」なんて言うつもりはもちろんない。でも「もうこいつらの仲間だと思われるのはうんざりだ」とは思ってしまう。「お前らはまず書くより先に読め、特に俺の書くものを」とも。ほかの奴らのあんな拙劣空疎な文章なんて読まなくてもいいんだよ。あんなの魂に響かないだろ? ちくしょう、なんであんなクソ詰まらねえ屁みたいなブログにそれなりの読者が付いてるんだ? スターが付きまくってるんだ? どんな互助的PR活動をしてきたんだ? 世の中は間違ってる! いつだって間違ってる。だからあんな出来の悪い右翼マスコットが首相になるんだ。ちくしょう、あんな血の通わないウンチブログはぜんぶ燃えてしまえばいいんだ。そしたら俺の書くものがもっとずっと読まれる。オイラはもっともっと承認されたい。褒められたい。「そうだそうだ」と言われたい。最終的には教祖になりたい。権力が欲しい! でもだいたい「ほぼみんな」そう思ってんだろうな。俺? ごめん、ちょっとだけでいいので書かせて。読まなくてもいいからさ。みんなはもっと健全で善良でスカスカなものを読んでくれ。僕にとって書くとはオナニー以上じゃない。「マスを書く」。通信資源の無駄遣いなんて言われてもへこたれない。そういうのはオイラがいちばん自覚してるからさ。もう飯にします。生きていてすみません。