夜露乳首金玉崩壊日記

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上司は思いつきでものを言う? 幽霊オナニートかく語りき、復讐は趣味ではない、「負け組」リアリズムの基礎、

瀬那十五年四月十六日 

 

考えてみれば分かるが、「合意に届かない議論」というのは、愚の最たるものである。にもかかわらず、そういう議論が日本に氾濫しているのは、「言論とは合意を得るためのものである」という基本原則が、どこかに行ってしまっているからである。「活字離れ」と言われるものの根本原因は、ここにあるのだとしか、私には思えない。「こんなものを読んだって、他人との合意は得られない」と思えば、まともな人は本なんか読まない。

橋本治『いま私たちが考えるべきこと』新潮社

 

午前十一時四十八分。ベルギーのシナモン風味強めの菓子、紅茶。午前離床にいちおうは成功したが得たものはなにもない。「後悔しなくて済んだ」というだけ。高市への各種批判を「ミソジニー」(この言葉はしばしば都合よく使われすぎる)と解釈して無力化しようとする幼稚な「戦略」はさすがにもう通用しない。「日本初の女性首相」のハネムーン期間はもう終わる。もう終わっているのかもしれない。幽霊の目から見て「国力」や「未来」などタワゴトでしかない。人口減を今後どうソフトランディングさせ、「自主的消滅共同体」をどう形成していくか、ということを彼女が語るのなら、私のような幽霊にもいちおうは「支持」可能なのに。「無暴力はいかにして実現可能か」ということを第一に語らない政治家や官僚や学者を僕は信用しない。さくやはキティ・グリーン『アシスタント』を見た。#MeToo運動のなかから生まれた映画。生成AI的に要約するなら、「名門大学を卒業し、映画プロデューサーを夢見るジェーンは大手映画会社でアシスタントとして働き始める。しかし彼女の仕事はコピー取りや理不尽な叱責への対応など華やかさとは無縁のものばかりだった」。ひたすら表情に乏しいジェーンの姿は、見るものに苦痛を感じさせる。「物語映画」らしくラストに「カタルシス」が用意されているわけではない。リベンジのリの字も存在しない。ぜんぜんスカッとしない。常識的には当然のことだ。「現実社会」の職場でそんなことをしたら(社長のドラ息子でもない限り)たいてい居場所を失う。仕事を失う。パワハラ上司などに不満があってもせいぜいネットの片隅で個人を特定されないよう不満を垂れ流すことくらいしかできない。ところで話は変わるけど、「上司を殴って辞表を叩きつけた」系の(真偽不明の)話がだいたい男の口から発せられるのはなぜだろうね。思うにあれは実際の出来事というより一種の「集合的願望」であって、だからこそひとつの定型的武勇伝として確立されているのだ。ジェーンはきっとこれからも今日と同じような雑務と地味なパワハラに気力を削がれ続けるだろう。「新人なんだからたしょうの理不尽は当たり前じゃないか、社会ってのはシビアなものなんだ」と素朴に感じる人もいるかもしれない。そういうふうに自ずと考えてしまう人が世の中に一定数(かなり)いることが彼女のような理不尽経験を可能にしているのだ、と言っておきたい。会長の妻の理不尽叱責電話への対応をジェーンに丸投げしている男性社員たちのあの「見て見ぬふり顔」に嫌悪感を覚えないでいることはほとんど不可能だ。「感情労働」を女性に強いる組織力学。ああいう顔に「既視感」を覚えない人はいないと思う。あれは世の中のどこにでもある顔だ。なんらかの組織において強い立場にある人間が作りがちな顔だ。家庭でも学校でも会社でも私たちはあの種の顔をうんざりするほど見ている。見させられている。もちろん自分だってあの種の顔を作ったことはあるだろう。だからこそ嫌悪感も強くなる。映画では会長の性加害が暗示されてもいる。ワインスタイン的なものだ。見る人によっては「ジェーンは会長に寵愛されているあのアシスタントの娘に嫉妬しているのだ」と感じるかもしれない。そしてそう感じてしまったことにすぐ恥ずかしさを覚えてしまうかもしれない。これは「罠」でもある。「女の敵は女」といったステレオタイプを都合よく利用してきた「男社会」の欺瞞を暴くための仕掛け。「会社の中で出世したいジェーン」の「合理性」と、「女性としてのジェーン」の「正義」が衝突することは日々何度もあるはずだ。でもそういうのはジェーンに限ったことではなく、生きているすべての人間にあることだ。志を持ってなんらかの組織の中で働いているのなら尚更。組織において、「そんなことは許されない、でも立場は失いたくない」といった引き裂かれを経験しないでいることはほぼ不可能である。夢や金のために働くということは、結局のところ、自分を人質に差し出すようなものなのだから。ときに都市伝説めいた様相さえ帯びる「上司を殴って辞めた男」系の武勇伝は、そうした人質としての自分を慰めるものとしてしか機能していない。幽霊オナニート的観点からすれば、「まずは人質解放が先なんじゃない?」と言いたいんだけどね。この映画の限界は、「優秀で努力する者は報われるべき」的イデオロギー(メリトクラシー)への根本的な懐疑が欠けている点にあると言える。当然ながら、名門大学を出ている「にもかかわらず」雑用ばかりさせられるジェーンに素直に「同情」できない人たちもいる。名門大学を出ていない人たちだ(特にオイラのような知的にも肉体的にも取り柄のないクズのような弱者男たち)。「名門大学を出ているにもかかわらず」といった語りの最大の問題は、「名門大学を出ていない人は雑用にふさわしいのか」という批判的な問いがはじめから閑却されてしまう点だ。これはナンシー・フレイザーの繰り返してきた「資本主義」批判とも関連してくることかもしれない。だからといってジェンダーをめぐる格差を不可視化していいわけではない。「現実」はいつだって死ぬほど面倒くさい。幽霊としてはあんぐりと口を開けて眺めるほかない。もう疲れたので飯にする。オムライスでいいか。いやカップヌードルでいい。カレー味。「うんこ味のカレーとカレー味のうんこ、どっちを選ぶ?」なんて聞いてくるバカとは付き合いたくない。俺に「究極の選択」を強いるな。倫理学でいう「トロッコ問題」についても同様。図書館は三時半には入れるかな。今週はまだ一度も行ってない。図書館はきっと泣いている。オイラは罪な男さ。そろそろ陰毛をカットしたい。ポコチンをいじるたび皮に挟まりやすくなってきたんだ。生きるとは僕にとってポコチンをいじることでしかない。朝から晩までずっとポコチンをいじっていたい。オナニートは現代の世捨て人であり聖人だ。オナニート万歳。大人ならマクローリン級数くらい知っとけよ。禁じられた遊び。ミシェル! ミシェル!