夜露乳首金玉崩壊日記

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どこにでもある「兄弟問題」を主題とした『震える家族』、権威主義国家は「民主主義」的装置を都合よくパクる、

瀬那十五年四月十四日 

 

批評家の提唱する裸体運動。

人さえ見れば、裸かになれ、裸かになれ、という。裸かになれば、人がみな逞しくなり、美しくなるとでも思っているかのように。では、どうだい、地球全体の、おい、みんな、物は試しだ、着物を脱いでみるか。

林達夫『思想の運命』批評家棄権 中央公論社

 

午前十一時五十九分。TKG、紅茶。十時半離床には失敗したが自責の念に駆られすぎないようにはしたい。このごろデフォルト表示されているエリン(雁高亀頭野郎)のことだけど、入力していると10分の1くらいに小さくなるんだ。クリックするとまだ戻る。そのかたちで小さくなったり大きくなったりするな。ハンガリーの選挙でオルバンの与党が負けた。彼が「自由民主主義」への反発を強めるようになった背景を概観するのに格好の一冊がイワン・クラステフ/スティーヴン・ホームズ『模倣の罠』(中央公論新社)。この本はヨーロッパの模倣ばかりを強いられる「政治的後進国」の屈辱を描き出している点で出色。強権志向のハンパない彼でも選挙制度を廃止することまではしなかった(できなかった)という点はもっと強調されていい。「非自由主義民主主義」(ライスのないカレーライスみたいなものと思えばいい)も選挙制度はいちおう認めるのだ。それは「国民に選ばれた」というかたちの「戴冠式」だから。なんらかの権威付けなしでは権力基盤を長期的に維持することはできないと知っているのだ。あのプーチンだっていちおうは選挙で選ばれているのだ。そうした体裁を取ることによって「独裁」との批判をなんとか回避できている。「民主主義なんて大っ嫌いだ」というのなら思い切って選挙制度も廃止すればいいのに、そうはしない。「国内外からの反発が大きすぎるから」というのもあるだろうけど、むしろ、それを利用していると考えるべきだろう。選挙による「legitimizing ritual(正統化の儀式)」を経たほうが統治コストが安く済み「合理的」なのだ。暴力装置や思想統制だけに依存する体制は長続きしない。少なくとも安定性を欠く。そうした手段に頼り続ければ、指導部の疑心暗鬼は負のスパイラルのように高まり、やがて国民監視が自己目的化したかのような不条理国家へと傾いていく。じゅうぶんに民を食わせていない自分たちのことは棚に上げ、「不満分子」と化しつつある民を、あの手この手で黙らせようとすることに限りある政治資源を費やすようになる。そうした不条理国家にミサイルおじさんや粛清おじさんが付き物なのは、体制維持のためなら手段を選ばないところまで追い込まれてるからである。もっとも僕からすれば不条理的ではない国家など存在しないのだけど。それは程度の問題に過ぎない。日本という国の政府もいま国民監視を強化しようとしている。貧すれば鈍するの好例。キム・ジニョン監督の『震える家族』を見た。また韓国ホラー。私の嫌いなジャンプスケアはやはり少なくなかった。ぞわぞわ感をクレッシェンド的に醸し出しておいて振り向いた瞬間に「きゃあああ」となるあれ。ああいうアホな観客向けのレベルの低い(芸のない)怖がらせ方はそろそろ卒業してほしい。主要人物は、凡庸な牧師(プロテスタントの聖職者)とその妻、三人の子供、施設から養子として迎え入れられた目の不自由な少年イサク。ちなみにイサクというのは「旧約聖書」に出てくる名前で、アブラハムとサラの息子のことでもある。障害があって車椅子に乗っていた長男(ハンビョル)もいたのだけど、池に落ちて溺死した。ただそれは単なる事故死じゃなかった。ピクニック中に長女が池に彼を車椅子ごと落とした(らしかった)。そして(映画終盤で分かることだが)彼の介護に疲れていた母親はその「事故」を見て見ないふりをしていた(らしかった)。これは、家庭における障害者を取り巻く諸々の薄暗い情念を、極端化して描いた映画だ。障害を持つ子供は、母親や父親の注意や「愛情」を一身に集めがちなため、ほかの兄弟姉妹の嫉妬や羨望の対象となりやすい(あまり自覚されないことが多いけど)。それが「殺意」へと変質することも不思議ではない。そうでなくたって兄弟姉妹というのはひんぱんに脳内で殺し合っているのだ(ここにも「承認」あるいは「愛情」をめぐる血みどろの闘争がある)。「お母さんかわいそう、あの子の世話で疲れているわ、あの子を殺したらお母さんも楽になれるのに」などと長女が「本当に」考えていたかどうかはこの際問題ではない。重要なのは、家族とう関係性にはつねに「殺し」の影がつきまとっているということだ(ホラー映画に家族が欠かせないのは、家族そのものがひとつの潜在的殺人現場であるから)。ほかの兄弟姉妹を皆殺しにして親の「愛情」(そんなものがあるとして)を独占できることが確実であるならば、誰だってきっとそうするんじゃないか。生き残るためには有限の「愛情」資源を自分から奪うライバル(邪魔者)を蹴落とさなければならない。家族というのは最も近くにいる敵だ。僕は今でも弟などいなければよかったとよく思う。この映画のようにどこかで殺すこともできた。でもそうはしなかった。そういえば僕も足の病気で車椅子に乗っている時期があった。僕も殺されていたかもしれない。この映画、悪魔祓いや怪異現象のシーンに目を奪われがちだが、いちばん異様なのは、家中にあふれる「イエスの推し活グッズ」なんだよな。その点でこれは「宗教二世問題」の映画としても見ることができる。ちなみに韓国はキリスト教徒が日本に比べてはるかに多い国で、プロテスタント教徒は全体の約二割とも言われている。キリスト教が受容される歴史的経緯については専門書に譲るけど、その日本の植民地統治との関わりはもっと強調されてもいい。つまりキリスト教は神道的日本に抵抗する精神的な拠り所としても機能していたのだ。そろそろ飯にするか。図書館入りはたぶん四時になるかな。ただ気分的にあまり行きたくない。木曜日からでもいいか。週三日行けばいいんだから。La forma del mundoの訳稿は少しづつ作っていこう。僕のような者は多忙なふりをしていないと倦怠に殺されてしまう。オイラは「怪物」の子。枕するところもない。生きていてすみません。ポコチンリアリズムと幽霊資本主義。確実なのはこれだけ。