夜露乳首金玉崩壊日記

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映画愚人かく語りき、痴情の星、マルクスときどき法制審議会、そもそも「必要悪」って何さ、

瀬那十五年四月八日 

 

たとえば、ある人の友人が交通事故で亡くなり、その場にすら居合わせていなかったにもかかわらず、その人が強い罪責に苦しむ、といったケースがある。このような事例は通常、「欲望と罪責(desire and guilt)」の水準で説明される。すなわち、その主体は無意識的に友人の死を望んでいた(unconscious desire)が、それを意識的には認められなかったため、実際にその死が起こったときに罪責感が生じる、という説明である。しかしここでは、さらにもう一段階、より重要な「罪責の水準」が問題となる。ジャック=アラン・ミレールが講義で指摘しているように、多くの患者は単にさまざまな症状(症状の中には罪責感も含まれる)に苦しむだけでなく、その「苦しんでいることそれ自体」に対して罪責を感じるのである。言い換えれば、彼らは「罪責を感じていることそのもの」に対して罪責を感じている。ここで問題となっているのは、単なる無意識的欲望ではない。むしろ、そうした欲望や罪責を生み出す枠組み、すなわち「心理的因果性(psychological causality)」そのものに対する関係である。

Alenka Zupančič, Ethics of the Real: Kant and Lacan(CG・訳)

 

午前十一時三十四分。TKG、バランスパワー、紅茶。「原則午前十時半離床」は「原則午前中離床」に変更する。へいぜい「原則」という言葉はあまり使いたくないと思っているのだが実際使ってみるとそこまで不快ではないから不思議だ。人は「原則」が大嫌いであり、そして大好きなのだ。お金と似ている。きのう午後四時ごろフリオ・カブレラ教授に著書の翻訳の可否についてたずねるメールをダメ元で送った。生まれはアルゼンチンの人だけどいまはどこに住んでいるのかはわからない。英語版wikipediaにはブラジル在住とあるけど、それがいつの時点での情報かは不明。じっさい可否についての返信があろうがなかろうが翻訳出版するつもりではいる。単にやってみたいから。オイラの辞書に「著作権」なんていうしみったれた言葉はない。ワイルドだろう? 思想は常に万人に開かれていなければならない。だいたいフリオはそういう権利による囲い込みに否定的な人なんじゃないかと僕は勝手に想像している。Internet Archiveでは彼の著作(PDF)を何冊か無料で入手できる(あと論文的なものも)。彼が許可したかどうかは分からないけど。ネットを介して他人の著作にこれほど自由にアクセスしている以上、自分の著作についてだけ権利を主張するわけにはいかない。年内にはKDPでいままでの「研究」を総合した本を出せるだろう。僕のうちなる「フサギの虫」が暴れすぎない限り。僕のうちなる「フサギの虫」はいったん暴れだすともう手の付けようがなくなるんだ。別々の党派に属する「フサギの虫」同士の衝突に次ぐ衝突、さながらフーリガン的様相を呈する。まいにちがヘイゼルの悲劇。古池や翡翠かわせみ去つて魚浮ぶ(子規)。そのあと蛙が飛び込むんだろう。句作から遠ざかってもう半年以上になる。もう俳人は名乗れないな。廃人は名乗れそうだけど。済州島四・三事件についての本を読みたいんだ。韓国でもほとんど語られてこなかったこの事件についての本を。金石範『火山島』はブックオフにあるかな。もうあそこには一年近く行ってないな。花粉の飛散が収まれば行くかもしれない。特定の条件が揃えば人は平気で他人を密告したり殺したりするようになる。倫理は個人的属性とはなんの関係もない。「内面」や「信念」なんてものを僕はおそらくぜんぜん信用していない。自分は世の中がどれだけ変わっても絶対にそんなことはしない、なんて言いたがる奴を僕はまず疑う。自分は密告とも拷問とも戦時性暴力とも無縁だろう、なんて素朴に思える奴らをまず疑う。そういう奴らは個人の行動なり判断がどれほど「状況(権力関係など)」に依存しているかを知らなさすぎる。図書館入りは午後三時~四時の間でいいか。便意はあったのにウンチが出なかった。排便時など腹に力を入れることを看護用語では怒責という。まことのはなし生きるとは怒責の連続だ。これを怒責流という。これこんど出す本のタイトルにいいかも。ベッドイン映画視聴は二日に一回としよう。YouTubeの無料公開映画がこんごもっと増えることを祈るばかりだ。個人的にはデヴィッド・クローネンバーグとデヴィッド・リンチの映画を公開してほしいのだ。このごろ「今夜は何を見るかな」と考えているときがいちばん楽しい。言うまでもなく楽しみというのはたいていは計画のなかにしかない。実行のなかにあるのではない。このことを知らない人が世の中には多すぎる。「恋」などと呼ばれている症状においても同じことがいえる。「好きな人」とは恋仲になってはいけないし、まして結婚などしてはいけないのである。その先にあるのは失望と幻滅だけだから。失望と幻滅はただ生きているというだけで十分すぎるほどに供給されているはずだ。まだ足りないというのか? 君はまずその不幸依存症の治療に専念すべきである。自分の不幸に自覚的でない愚かな人々は往々にして新奇な不幸を呼び込むことでそれを覆い隠そうとする。その一例が子供であることは言うまでもない。「名立たるものを追って輝くものを追って人は氷ばかり掴む」(中島みゆき)。あらゆる享楽とは無縁の倫理、諦念。底なしの、つまりは底の浅すぎる現存在。さて昼食にしましょう。マイタケと小松菜をチンする。ちんちんが痒い。世界中の男ぜんいんがちんちんの痒さでくたばればいいのよ。どきゅん! クズは踊れ。