瀬那十五年四月六日
なぜ女性性があらゆる時代において、これほどまでに激しい普遍的軽蔑の対象となってきたのかと自問するならば、答えはこれしかない。すべての人間は女性の体から生まれ、少なくとも潜在意識レベルでは憎悪を抱いて生まれてきたのだから、私たちのあらゆる悲しみの根源を宿す者たちを憎むしかないのだ。
Théophile de Giraud,L’art de guillotiner les procréateurs (CG・訳 微修正)
午前十時四十二分。ココナッツサブレ、紅茶。休館日。一昨年に作った円グラフの生活スケジュールでは離床時刻は午前10時半(就床は午前2時半)となってる。やはりそれくらいでないと深夜のベッドイン映画上映会を楽しむことはできない。日課に関してドMな僕は、自分で立てた予定に亀甲縛りにされることは嫌いではない。有り余る時間を前に「自由という刑」を自覚させられるくらいなら超タイトな予定表にほぼ従属しながら日々を過ごしていたい。「感情の振幅」は小さいほうがいい(僕にとって「感情」はときにノイズのようなもの)。「感情」の介入を最小限に抑えつつも、革命のための学問だけは忘れない。今も虐げられている全生物の呪いを知的反逆エネルギーへと転換し続ける日常。これが、僕に許可なく開始された「残酷人生」への最大の復讐なのだ。生きるとは復讐することだ。復讐以外に僕が今も生き続けている理由はない。「満たされぬ魂の静かな怒り」。(いろんな意味で)小さな者たちは「社会」や「個人」よりも大きな「敵」を想定することができない。そんな者たちの中からはせいぜいどこかの大使館に刃物を持って侵入したりスクランブル交差点に灯油をまいて火をつけるような者くらいしか現れないだろう。外出をきょくりょく控えているためか、例年ほどアレルギー性鼻炎に苦しめられてはいない。明日から閲覧室に復帰してもいいかも。本が俺を呼んでいる。「なぜ本を読むのか?」「そこに本があるからだ」。図書館で新聞ばかり読んでいると明らかに脳の栄養に偏りが生じる。鉄分とビタミン的なものが不足しがちになるんだ。新聞はむろん必要だ。新聞のような記事が個人向けに再配置されていないメディアは、無数のアクターによって意図的に偽情報が垂れ流されまくっているこの野蛮な「認知戦」社会の只中においては貴重なものであり、そうしたものを定期的に読むことは、自分の脳を取り巻く「フィルターバブル」あるいは「エコチェンバー」が不可視化されることをある程度は防いでくれる。「党派」的同調快楽は批判性思考を鈍くする。さいきんでは生成AIの「おべっか」にも警戒を向けるようになった。心地の良いものにはたいてい罠がある。特定の曜日だけは専ら新聞を読むことにするか、それとも毎日最初の30分~60分を新聞読みに充てるか、今日中に考えておくこと。そういえば京都の小学生の行方不明が話題になってるね。日本では行方不明者や失踪者なんて年に何万人単位でいてぜんぜん珍しくないけど、こと子供となると事件性は上がるんだな。子供の行方不明はどうしても「神隠し」という言葉を連想させる。オイラにとって生まれるというのは両親に誘拐されることに等しい。いかなる「親への親しみ」も(ストックホルム症候群のような)心理的適応戦略と見るべきだろう。しかし「人生」を一つの拉致事件として扱う人の少なさには今更ながら驚きを禁じ得ない。世の「人の親」どもに比べれば北朝鮮工作員なんてマイナーリーガーみたいなものである。
『選択 2026年3月号』を読む。
4月号からは図書館で読むことにする。「大学生「AI依存」が止まらず」という記事があった。さいきん卒論の質が劇的に向上したのは、学生の大半がその執筆に生成AIを利用しているからだという。この記事の筆者は最後、「いくら生成AIの使用を禁止してもイタチごっこになるだけだ、むしろ卒論を手書きで提出するようにすればよい」といった意見を記しているが、アナクロニズムも甚だしいというべき。「チャッピーにおまかせ」あるいは「ジェミィは何でも知っている」モードの学生に教師がいくら「まともな説教」をしても馬耳東風だろう。「ああ、また言ってるよ」ってなるに決まってる。人間の言葉ってのは「ああ、また言ってるよ」と飽きられたらもう終わりなのだ。いかなる訴求力も破壊力も持ちえない。「平和憲法を守れ」とか「不退転の決意」なんて聞いて衝撃を受けますか。脳髄がぴりぴりしますか。言葉という思想のヴィークル(乗り物)にとって陳腐化こそが死なのである。「AI依存」はがいして悲観的に語られすぎである。それを理由に「学生の堕落」なんて決めつけていいのか。むしろ「脳の省エネ」のために最新のテクノロジーを巧妙に駆使できる「利口」な学生たちをほめるべきでないのか「ネオデジタルネイティブ世代が誕生した」と素直にことほぐべきではないのか。生きるとは古い衣を脱ぎ捨てることであり、ズルすることであり、相手を出し抜くことである。「禁止」ほど野暮で不合理的なものはない。むしろ教師のほうから、「生成AIなどを利用したければじゃんじゃん使ってください、ただし使うからには面白くて質の高いものを書けよなこのジャリども!」と(ハードルを上げつつ)その利用を推奨するくらいがちょうどいいのだ。PCさえ十分に活用できない不器用な学生がこれからの「高度デジタル社会」に「適応」できるはずがないんだから。時代は変わった。「世の中はいつも変わっているから 頑固者だけが悲しい思いをする」(中島みゆき)。中途半端に「アナログ」手法を強いるくらいなら徹底的に技術を利用させてみてほしい。僕は卒論なんて書いてないんだけどね。学問においては「卒業」などありえない。僕は死ぬまで学生だ。だってまだ絶望的に不勉強だもの。「知的体力」を付けたければ長い論文を自分の力で書くことだ、なんてのももう旧時代の発想なのかも。僕は資料収集も仮説設定も(得意・不得意は別として)それなりに好きだけど、それさえ省力化可能なら、それに越したことはないと思う。いまどき洗濯機や電子レンジや冷蔵庫の利用について「手抜きだ」「横着だ」なんて誰も批判しないでしょう。料理は自分で獲得した素材を自分で起こした火で調理すべきだ、なんて誰も言わないでしょう。生成AI(いずれその形態は変わり呼び方も変わるだろうが)もいずれ白物家電と同じような存在になる。「使うのが当たり前」となる(というかもう若年層ではそうなってるんだけどね)。そのことにただ拒絶感を覚える人々は、幕末・明治の日本で「被写体は魂を抜かれる」などとカメラを恐れた人々にちょっと似ている。ただ私はその種の拒絶感を嘲笑しないようにはしたい。それは一面、「正当な反応」でもある。技術が人間をバカにするのではない。技術はただ人間のバカな部分を見えやすくするだけなのである。あれ、なんか聞いたことあるような。ともあれ文明化の歴史とは手抜きの歴史なのです。それでも日常にまだこれほど雑務があるのはなぜでしょうか。文明化が不徹底なのでしょうか。最終的に「人間」は「生きること」さえ「単純作業」として機械化することになるだろう。「AI依存」がこれほど急拡大してる背景には「自己機械化」への欲望がある。この地上に日常を愛している者など一人もいない。そろそろ昼飯にしますわ。ご飯チンして、ピリ辛エノキね。愛は敗者の陰毛にしか宿らない。モーツァルトの恥垢に口付けを。ああ、さっきからドゥンドォンうるさいな。ウォーターハンマー現象というやつか。俺の周囲の空気を俺の許可なく振動させるな。サヨナラバスがさっきから脳内再生されている。サヨナラブス。ムッソリーニ風シフォンケーキ。愛のない日々に耐えろガキども。