夜露乳首金玉崩壊日記

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いまの僕には『カサブランカ』を論じられるだけの力量はない、一本の映画に詰まっている情報量に圧倒されずして何が「映画鑑賞」だ、

瀬那十五年四月五日 

 

このことはまた、生の本質ともかかわっている。そもそも生は、いわば自己を超えでてゆくこと、つねに自己を超えたところへと手を届かせようとすることを、その本質とする。これは、自己保存の欲動においても生殖においても、表象作用や意思においても同様である。

『ジンメル宗教論集』深澤英隆・編訳 岩波書店

 

午前十時二十六分。蒟蒻畑(りんご)二個、食パン一枚、紅茶。このごろ寝つきはわりといいが明け方ごろに異様な寝汗の不快で目を覚ましてしまう。寝汗の不快に悪夢はだいたい付き物。もっとも現存在そのものがひとつの悪夢である以上、睡眠中の感覚性心像が悪夢的になるのは当然なのかもしれない。歴史は私たちがつねにそこから目覚めたがっている悪夢である。「悲観的」だなんて言わせない。知的誠実性を何よりも重んじる僕は白い馬を白い馬と言っているだけである。革命とはこの絢爛たる「悪夢」連鎖を超克することなのだ。昨夜見た映画はマイケル・カーティス『カサブランカ』。1942年作。ヒトラーのポーランド侵攻の3年後。パリ占領の2年後。それゆえこれを「戦争プロパガンダ映画」と見る向きも少なくない。映画というものは古くなればなるほど見る者に知的な負荷をかけてくる。もはや「鑑賞」などという生易しい姿勢では何も受け止めきれない、とすら感じられる。この種の困惑を伴わない映画など見るに値するだろうか? そもそも僕のような無知無学の人間に映画を見る資格などあるのだろうか? ところでさいきん映画について論じようとするたびやたらと蓮實重彦のことが気になってしまうんだ。蓮實重彦が僕のチンカスまみれの駄文など読んでいるはずがないのに、彼の視線を感じてしまう。これって蓮實の映画批評を読んだことのある人あるあるなのかな。実際僕は彼からは(その知的挑発性を別にすれば)大した影響は受けていない(はずだ)。とりあえずこの症状を蓮實病とでも呼んでおこう。これを放置しておくと「退屈な説話論的構造」だとか「凡庸な共同体意識」だとか無様に連発するようになってしまうだろう。僕のもっとも嫌う無自覚系エピゴーネン。この映画、最初の十分だけでも情報量がハンパない。ヴィシー政権、ドゴール派、ナチス、フランス領モロッコなどについて最低限の知識がないと、何が起こっているかよく分からないかも。ハンフリー・ボガート扮するアメリカ人リック(モロッコの酒場の店主)の、あのシニカルで投げやりなしゃべり方は、子供でなくても真似したくなる類のものだ。ついで言うなら彼の声はジョニー・ノックスヴィル並みに良い。比べんな? たぶんオイラは俳優の声に世界一うるさい男だ。リックは最初からあんな話し方をしていたわけではない。パリ時代のあの甘ったるい「回想」場面では青年らしい快活さがあった。彼があのニヒリスティックで乾いた喋り方になったのはきっと、パリ陥落の混乱の中でイルザに「捨てられ」、モロッコへと流れ着いたあとだ。内心ではイルザに恋着ありまくりなのについ突き放した態度を取ってしまう彼を「元祖ツンデレ男」とでも呼びたくなるのはたぶん僕だけではないはずだ(もっとも彼が「元祖」であるはずなどないんだが)。ちなみにこの映画は「君の瞳に乾杯」という現在では半ば〝ネタ〟化しているセリフ意訳でも有名だが、〝Here’s looking at you, kid〟は直訳的には「君を見つめてるよ、子猫ちゃん」といったところ。記憶が間違いでなければこのセリフがリックによって発せられるのは一度だけではない。パリ時代についての「回想」場面(グラスを掲げながら)でまず発せられるし、飛行機の前でのイルザとの別れの場面でも発せられる。字幕翻訳者・高瀬鎮夫がここで「乾杯」を持ってきたのは、「君に乾杯」を表す定型句〝Here’s to you〟に(わざと)引きずられてのことなのかもしれない。まあこのへんの字幕事情についてはもっと綿密な「考証」をしている人がいるだろうから、僕のような素人はこれ以上踏み込むべきではない。この映画には素敵な音楽がいろいろ流れているが、そのなかには作詞作曲Ray Nobleのポップ・スタンダードThe Very Thought of You(1934年)もちょっとだけ聞くことができる。原曲のボーカルはたしかAl Bowllyだ。「ダンスバンド文化」黄金期(1920年~1940年代)の代表的歌手。彼の存在を知ることができたのは、英国のアンビエント・ミュージシャンThe Caretaker(James Leyland Kirby)を論じるマーク・フィッシャーの文章を読んだからだった。本を通して音楽関係が広がるというのが素晴らしいことだ。もしマーク・フィッシャーを読むことがなかったら僕は死ぬまでアル・ボウリーのHeartachesを聞けなかったかもしれない。これはとても恐ろしいこと。ちなみにアル・ボウリーは1899年、当時ポルトガル領だったモザンビークで生まれた。『カサブランカ』もそうだが、この時代の文化的産物には常に西欧列強による植民地政策(帝国主義)の「影」を引きずっている(今もそうかもしれないが)。表象文化論的視点なんてほぼ皆無の人たちが見ても興味を覚えること頻りだろう。要するに、映画は「時代」について語りすぎるのである。小説や音楽、絵画なども時代を語るには語るが、映画の場合は興行としての性格が相対的に強く(制作コストと収益のバランスを無視できないため)、結果として「観衆の欲望」をなんらかの形で反映したものになりやすい。とはいえ世の中に「観衆の欲望」なんてものが実体としてあるのではなく、のちに「観衆の欲望」などと呼ぶことで輪郭付け可能な「時代の空気」があるだけなのかもしれない。欲望とは既にそこあるものなのではなく、作られるものなのだ。映画が史料としても貴重なのはそれが「欲望」の可視化メディアであると同時に、「欲望」の生成メディアでもあるから。誰にも理解されない小説や絵画はありえても、誰にも理解されない(商業)映画などありえない。

 

じつは、映画隆盛の物質的前提となった第一次世界大戦直前の映画産業の大規模な再組織は、あらかじめ計算された視聴者の欲求への意識的な同化にほかならなかった。スクリーンの開拓時代には、そんなものを勘定に入れなければならないなどとは、ほとんど考えられもしなかったのだが。

ホルクハイマー/アドルノ『啓蒙の弁証法』徳永恂・訳 岩波書店 

 

映画と「観衆の欲望」についてはいずれもっと研究したい。映画では「見えないもの」を「見えるもの」に優先させるわけにはいかない。見えるものと見えないもの。ってメルロ=ポンティか。そろそろご飯を炊いてTKGだ。二時間後には図書館で新聞。うんちがすこぶるくさい。人体の最大の欠陥は訓練なしでは自分のポコチンをなめられないところにある。振り向けば恍惚の人。エンドレス悪夢。