瀬那十五年三月二十四日
絶え間ない闘争のこの地上においては、幸福を見いだすよりも、不幸になるほうが比べものにならないほど容易である。何もしないだけで、われわれは苦しみに打ちのめされるのに対し、どれほど執拗に努力しても、至福が保証されるとはかぎらない! この法則だけで、あらゆる楽観主義的な主張は、それだけで決定的に打ち砕かれるのである。
héophile de Giraud,L’art de guillotiner les procréateurs : Manifeste antinataliste(CG・訳)
午前二時四分。食パン、紅茶。紅茶はティーバッグを二個使うこともあれば三個使うこともある。ただ四個使うことはめったにない。不眠地獄への道は三つ以上のティーバッグで舗装されている。「生きる」とはアディクションそのものだ。僕たちは「生きる」をやめられない。奪うばかりで何も与えようとしないこの「生きる」への嗜癖をこそ病理化しなければならない。少なくとも僕には病識はある。この世は巨大な脳病院だ。さっきTwitterでなかなかこわい投稿を見た。いかにも善良(つまり人畜無害)そうなプロフィール写真のアカウントが、「政府批判などが嫌われるいまの日本の風潮」について、「批判がダメというより的外れな批判がダメなんじゃないの?」みたいなことを投稿していた。なにがこわいかってそこになんの悪辣さも感じられなかったから(立花某のような悪辣さのカタマリのようなやつがこんなタワゴトを投稿していても全然こわくなかっただろう)。「ファシズムは優しい顔をしている」という思いが確信に近づくのはこういうときだ。さいきんオイラは邪悪そうな人間より善良そうな人間のほうがずっとこわい。政治的無菌室でそのまま大人になった「かのような」人たちがこわい。実存的摩擦係数の低すぎる「ような」人たちがこわい。あなたがたのそうしたクールさを僕は死ぬまで信用しないだろう。きのう見た映画はジャファル・パナヒ『熊は、いない』。「映画監督」役で主演もしているパナヒは、かつてイラン政府の忌諱に触れ、映画製作と出国禁止を言い渡されたという「反体制派」映画監督。イランの「言論の不自由」度についてのあるていどの予備知識がないと、最後まで「何が起こっているか」分からないことになるかもしれない。「虚構」と「現実」が綯交ぜになっているこのメタフィクション映画はつまり、その地味な分かりにくさによって見る者を宙吊りにし苦痛を与えつつ、ごく間接的なかたちで、「言論弾圧」の不条理性を示そうとする。「分かりやすい物語(娯楽)映画」となることを頑固に拒否しているのは明瞭である。「熊」という比喩は、映画のなかの村人の言葉から、イランの土着的な迷信のことだと察することができるが、そうした迷信を迷信たらしめているのは共同体特有の「後進性(蒙昧性)」であり、その「後進性(蒙昧性)」を温存させているのはけっきょく、「劣化した現存在」における内省欠如性なのだ。この映画は、人間の自由を束縛する「古いしきたり」に対し、「そんなのは迷信だ」と単に笑い飛ばす類のものではない。「古いしきたり」を「迷信に過ぎない」と(薄々)気がついてはいてもなおそれを捨て去ることができない、「実存的頽落性」を浮き彫りにする映画なのだ。だから映画に出てくる顔はどれも「出口なし」といった悲痛な諦念が刻印されている。生きてそこにあるということのどうしようもない窮屈さと寂しさ。他者に加害を与えないでは生きられない人たちの「普遍的有罪性」。「生きてあることの地獄性」を語りえない映画は見るに値しない、といまの俺は思う。これこそ、その実存的自明性にもかかわらず、人間社会においては常に既に巧妙に隠蔽されている〝事実〟なのだから。映画では自分がいま国境線の上に立っていると知って怖気づき、後ずさりするシーンがある(これが妙に「リアル」)。最後に国境を越えようとして射殺された男たちが出てくる。出国禁止を言い渡されたパナヒにとって国境線は抽象的な何かでないのだ。それは「死」を連想させないではおかない。恥をしのんで言うが僕はこの映画を見るまでイランとトルコが国境を接していることを知らなかった。なんのためにダイソーで買った世界地図を壁に貼ってあるんだ。もういいか。九時に図書館行こうかな。さくじつ日中の買い物でわりと花粉を浴びてしまったが鼻炎はぜんぜん出ていない。五日前のコンタックがまだ効いてるのか? それともオイラの日頃の行いが良すぎるからなのか? たぶん後者だろう。振り向けばトランプ高市のシックスナイン。ペンネームは北原悪臭。生きていてすみません。僕のキンタマにはあの堕天使たちのゲロが詰まっている。エディアカラ紀の核シェルターから愛をこめて。あさひかせい。いひ! 下痢にも便秘にも負けず。